「したもつ」という語彙は耳慣れない。「下で持続する」「下で根を持つ」ととるのは牽強付会のようにも思う。
「し」を強意の助詞というほうが納得しやすい。しかしこれは連体形の動詞を強めるよりも「たびにしあれば」
など、状態のアクセントとして生きる助詞のように思う。「さやにしたもつ海原」がなんとなく舌足らずで、
くろうとならばもっと端的でわかりやすく表現をみつけただろう。両義的解釈が生まれるゆえんでもあると思う。
白はすべての色の混合のきわみでもあるらしいから、その普遍の色彩の底には海のさやかな色彩が潜んでいるのだ、
という象徴性か。
何人かの人が引き合いに出す観音崎慰霊碑除幕の折の作は秀逸だと思うし、臨場感にも溢れしかもわかりやすい。
それだけにこの、白珠のほうは同一作者の作としては熟していない、出来そこないだと思う。
もっとも海原をみずからの出自とするナルシシズムととると面白いことはおもしろいがそこまで行ってなかろう。
しかしなんとなく収まりのわるい後味を残す作ではありますね。「白珠はくさぐさの色ひそめつつことにさやかに
海原の色」とでもしといてくれたらね。色が重複は免れないとしても。ともかく朝日がチョンがサヨがという、
かさにかかった雑音も出てこなかったろう(それにしてもなぜ出てくるんだ)。

ただなんで宮内庁が出てくる。皇后に無断でしゃしゃり出たのでもないだろうから皇后の内意を得たか。まあしもじもなら作者が出てきて「なにが出来そこないだ!」とおおいに荒れるところ。それのできない立場には同情する。